背の高いツバサは、体を丸めてもすっぽりと身を隠す事はできない。中途半端に茂みから飛び出る頭。
どうしてあんなところで会ってるのよっ!
唐草ハウスへ向かう為に角を曲がろうとして、声を聞いた。
「ごめんなさい」
シロちゃん?
怪訝に思って足を止めた。その瞳に映るのは、田代里奈と向かい合う短髪の後頭部。後姿でも見間違う事はない。
コウ?
隠れたのは条件反射。
ごめんなさい? どういう事? どうして二人が向かい合ってて、シロちゃんがコウに謝ってるの?
ごめんなさい。
里奈の言葉を胸の内で創り上げるツバサ。
ごめんなさい。やっぱり私、蔦くんの事が好きなの。
やっぱり、そういう事なのか?
単なる憶測でありながら愕然とするツバサの耳に、軽快で気楽そうな声。
「あ、いいよいいよ、別にこっちは全然大丈夫。問題ないから」
全然大丈夫?
シロちゃんが目の前に居て、元カノと向かい合ってごめんなさいなんて言われて、それで問題ない、だと?
頭の中がグルグルする。角の向こうで二人の会話が続いているようだが、雑音として入ってくるだけで、何を言っているのかはさっぱりわからない。
今、あの二人の前に出て行く? 私が? そんな事できないよ。だったらこのまま立ち聞き?
ツバサは、ヨロヨロと来た道を引き返す。途中で路地に入り、茂みにしゃがみこんだ。隠れたと言うより、立っていられないといった表現の方が正しいのかもしれない。
落ち着け。とにかく落ち着こう。
ゆっくりと息を吸う。
私の単なる誤解かもしれないし。
でも、あそこでなんで二人が会ってるのよ?
だいたい、里奈が唐草ハウスから出るなんて滅多にない。ツバサが知っている限り皆無に近い。里奈もあまり出たいとは思っていないように思える。外の世界に対しては、好奇心よりも今までの体験からくる恐怖心の方が勝っているようだ。
その里奈が唐草ハウスの入り口の外にいて、そこにはコウが居る。
コウだって、ツバサが何度誘っても唐草ハウスの中に入ってくる事はなかった。入り口で待っていてくれる事はあったが、入ってきた事は一度もない。無邪気に遊びまわる子供達や問題を抱えた同じ歳の人間に向かって、どんな顔をすればよいのかわからないのだと言っていた。
今も、コウは唐草ハウスの中に入っていたワケではない。だが、入り口には居た。
苦手だと感じる人間が多く集う建物に、好んで近寄る人間などいるだろうか?
シロちゃんが呼んだのだろうか? それともコウが?
「俺、お前を信じてる」
コウの言葉が耳底に響く。
そうだ、誤解だ。二人には何か事情があるんだ。
だがいくら言い聞かせても、それは虚しい言い訳のようにしか聞こえない。
何か事情って、何よ?
突き詰めると、どうしても一つの答えに辿り着いてしまう。他の答えを求めようとしても見つからない。むしろそのような行為は、認めなければいけない現実から目を背けているだけのような気がする。
結局自分って、そういう人間なの? お母さんのように限られた、自分の信じたいと思う世界の中でしか生きる事のできない人間なの? お兄ちゃんのようにはなれないの?
蹲り、膝に額を当てる。
嫌だな。こんな自分は嫌だ。だからこそ今日はコウに謝ろうって、そう決めていたのに。
近くで乾いた足音が響く。マンションから住人が出てきたようだ。ツバサには気付いていないらしく、急々と過ぎ去っていく。
見つからなかった事にホッとしつつ、同時にため息も出る。
こんなところで蹲ってたら、絶対に怪しい人間だって思われる。このマンション、それなりに高そうだ。管理人も居そうだし、いつまでもこんな事してたら不審者だって通報されちゃうかも。
じゃあどうする?
ツバサは小さく瞳を泳がせる。
家に戻る? でも、夕飯までは帰らないと告げてきてしまった。その情報はもう母にも伝わっているだろう。今帰ったら、何かあったのではないかと疑われる。唐草ハウスで、何かトラブルでもあったのではないかと。
「ほらね、あのような施設に出入りしていると、何に巻き込まれるかわかりませんよ。私の天使ちゃんに何かあったらママ心配だわ。天使ちゃんはもう十分世間の役に立ったのだから、そろそろ通うのはお止めなさい」
舞い戻ったツバサに対して、これ幸いとばかりにこのような事を言い出しかねない。言われても辞めるつもりはないのだが、なんとなく癪だ。慈善事業は宣伝活動の一環だと考える母に、得意顔をされるのは嫌だ。
それに、今日は子供達とクッキーを作る約束だ。ツバサがいなくてもクッキーは作れるが、明日はみんなで作ろうと約束した。みんな、ツバサの事も待っているに違いない。
だったら、このまま唐草ハウスへ行く?
あの二人のところへ?
路地を進み、角を曲がった時、自分は、何でもないような顔で二人と向かい合う事ができるだろうか?
できない自分。でも、できるようになりたいと思う自分。
ツバサは瞳を閉じた。乾いた目に涙が沁みる。別に泣きたいのではない。瞬きもせずに考え込んでいた瞳が乾いていただけだ。
目が、痛い。
じっと頭を抱え、そうして今度は勢い良く立ち上がった。
これが現実だというのならば、いくら逃げてもいずれは知る事になる。
吹く風が、ツバサの背中を押す。大股で歩き出す。気持ちが萎えてしまわないように上を向いた。
秋の空が澄み渡る。寒くもなく、暑くもない。
天気って、人間の感情に影響するもんなんだな。
こんな空なら、何が起こっても受け入れられるような気がする。両手を広げ、深呼吸をし、天気に左右される自分を笑いながら角を曲がった。
そこに居たのは、コウ一人だった。
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